※この記事は2024年2月に更新しました。
【ダチョウ倶楽部】のトリオ名の由来、本名、芸名など様々な名前について、同期芸人は誰だ?などをご紹介していきます。2022年5月11日に亡くなった上島竜平さんもメンバーとしてご紹介していきます。
スポンサーリンク【ダチョウ倶楽部】トリオ名の意外すぎる由来!?
【ダチョウ倶楽部】のトリオ名の由来は、当時東京で売れている芸人さんは「ビートたけし」さん、「所ジョージ」さん、「とんねるず」、「タモリ」さんなどイニシャルが「T」の人が多く、またバンド『爆風スランプ』が売れていたことから、濁点が付いた方が売れるということになり、「ダチョウ」というワードを。
そして、同じく当時空前の大ブームとなっていた秋元康プロデュースによるアイドルグループ「おニャン子クラブ」から「倶楽部」を、それを合わせて『ダチョウ俱楽部』と命名しました。
スポンサーリンク旧トリオ名は【キムチ俱楽部】
ダチョウ俱楽部は元々『キムチ俱楽部』というグループ名で活動していました。
結成時は20~30人の大所帯のコント集団で、その中には俳優の近藤芳正さんなども居たそうです。当時、渡辺正行さんが立ち上げた第1回「ラ・ママ新人コント大会」に出場することになっていましたが、メンバーのほとんどがすれをすっかり忘れてしまい、直前に連絡が付いた3人と南部虎弾さんで参加することになりました。
それが成功したことでその4人での活動が増え、改めて4人で『ダチョウ俱楽部』に改名し、本格的に活動を開始したのが始まりでした。
スポンサーリンク【ダチョウ倶楽部】の本名と芸名は?
【ダチョウ倶楽部】の3人、それに旧メンバーだった南部虎弾さんの本名と芸名について見ていきましょう。
スポンサーリンク肥後さんの本名と芸名
芸名 | 肥後 克広 (ひご かつひろ) |
本名 | 肥後 克広 (ひご かつひろ) |
生年月日 | 1963年3月15日 |
出身 | 沖縄県那覇市 |
事務所 | 太田プロダクション |
芸歴 | 39年 1985年~ |
担当 | ツッコミ(向かって中央) ※2024年現在は右 |
肥後さんは本名を肥後 克広 (ひご かつひろ)さんと言いますが、現在は本名を芸名として使用しています。
『ダチョウ俱楽部』から旧リーダーの南部虎弾さんが脱退した1987年以降、2024年現在までダチョウ俱楽部のリーダーを務めています。
高校卒業後に上京し、白金のデザイン事務所で商業デザイナーとして働くも半年で退職し沖縄に帰郷し、その後お笑い芸人になるため再度上京し、当時スターだった萩本欽一さんに師事するも断られ、浅草演芸会の杉兵助さんに支持。
杉門下の先輩である繋がりで『コント赤信号』の活動に参加し、その流れで『キムチ俱楽部』としての活動を開始。のちに渡辺正行さんのアドバイスもあり、南部虎弾さんをリーダーとした4人で『ダチョウ俱楽部』として活動を開始しました。
メンバーの中で唯一本名で活動している肥後さんですが、かなりの天然でも有名。メンバー内でも最年少の肥後さんがなぜリーダーなのか?というと、「メンバー内で一番背が高くてリーダーっぽく見えるから」という、ただそれだけの理由だったそうです。
しかし、肥後さんのマネージャー曰く「ダチョウ俱楽部に無くてはならない存在」だそうで、グループ内では絶大な支持を得ており、「楽屋の空気をキレイに整えたい」という思いから、『ダチョウ俱楽部の空気清浄機』というあだ名が付けられています。
スポンサーリンクジモンさんの本名と芸名
芸名 | 寺門 ジモン(てらかど ジモン) |
本名 | 寺門 義人(てらかど よしひと) |
生年月日 | 1962年11月25日 |
出身 | 兵庫県川西市 |
事務所 | 太田プロダクション |
芸歴 | 39年 1985年~ |
担当 | ボケ(向かって左) |
寺門 ジモンさんは本名を寺門 義人(てらかど よしひとさんと言います。『寺門ジモン』という芸名は、本名(苗字)の寺門を音読みにしたものです。
芸能界では『ネイチャージモン』のあだ名で有名ですが、小さい頃山の頂上に自宅があったため、アウトドアが大好きで1年に6回は山に籠るほどのマニアぶり。その目的な主にオオクワガタの採集で、冬に入山して夏場に採集する際のルートを決めるほどの徹底ぶり。
その専門性の高さは芸能界に留まらず、クワガタ業界でも有名人。最終だけでなく飼育もお好きで、東京にはオオクワガタ飼育専用の部屋を借りているそうで、芸人仲間である『ナインティナイン』岡村さんからは「師匠」と呼ばれ尊敬されています。
他にも様々なものに対し造嗜が深く、とくに有名なのは「グルメ」。小さい頃からお年玉を貯めて銀座のお寿司屋さんに一人で行っていたそうで、愛する牛肉については業者だけが参加する牛の競りにも参加し、一頭買いをするほどの入れ込み様。
しかし、趣味が仕事につながっており、様々な業種とのコラボ企画などを開催し成功をおさめ、事務所内でもけっこうな稼ぎ頭と言われています。
スポンサーリンク上島さんの本名と芸名
芸名 | 上島 竜兵 (うえしま りゅうへい) |
本名 | 上島 龍平(うえしま りゅうへい) |
生年月日 | 1961年1月20日~2022年5月11日(61歳死去) |
出身 | 兵庫県氷上郡 |
事務所 | 太田プロダクション |
芸歴 | 37年 1985年~2022年5月11日 |
担当 | ツッコミ(向かって右) |
上島さんは本名を上島 龍平(うえしま りゅうへい)さんと言いますが、ほとんど芸名と本名は同じに見えて、実は本名は下の名前は「 龍平」という字を書くのに対し、芸名は「竜兵」となっています。
上島さんと言えば、上島さんを中心として仲の良い芸人仲間の集まり「竜兵会」が有名ですが、その中でも特に親交が深かったのが、有吉弘行さん。有吉さんは「この会があったから、芸人をやめずにいられた」「涙をこぼすのは上島さんの葬式だけ」とまで言っており、上島さんも有吉さんへの感謝と関係性について度々語っていました。
有吉さんは2020年12月18日に放送された「マツコ&有吉かりそめ天国」3時間スペシャル内の、「これだけは許せなかったこと」という話題の中で、10数年前チンピラじみた人達に上島さんのことをバカにされ、激高したというエピソードを語っています。
有吉ほんと上島のこと大好きでしたもんね。あの回のサンドリの上島の事語ったところだけ切り抜いたの聞いた事ありますが悲しくてたまらないはずなのにちょっと笑いも入れつつ、一生懸命語ってくれてましたね。私上島の自叙伝買って読んだ事あるくらい好きだったからほんと寂しいな
— メルペイ (@gorigorimarun) January 21, 2024
また上島さんの葬儀の際は、通夜から火葬まで家族同様の扱いを受けて付き添ったことを明かしています。
そして、志村けんさんとも親交が深かったことも有名です。志村さんは説明するまでもなく、ザ・ドリフターズのメンバーであり、昭和~平成の終わり芸人の頂点にまで上り詰めた方ですが、2020年3月に新型コロナウィルス感染症に伴う肺炎のため死去。
用事で、東村山に来たので、志村けんさんの銅像前でパシャリ!!👀
— ordinary-kazu (@SDyH05W7FdK21xk) January 19, 2024
ずっとファンだったので、改めて亡くなったのを実感しました。寂しいですね💦💦
天国で、楽しく過ごしている事を祈っています😭#志村けん#ドリフターズ#東村山 pic.twitter.com/Nss496sH1U
公私ともに親交が深かった志村さんを「芸能界の師匠」と慕っていた上島さんは、以降ひどく落ち込み、志村さんとの思いでを振り返っては泣くなど上の空で、心ここにあらずという時期が続いていたそうです。
そして2年後の2022年5月11日、自宅で意識を失った状態で奥様である広川ひかるさんに発見されましたが、すでに心肺停止状態で帰らぬ人となりました。遺書などは残されていなかったものの、警察は自殺と断定。まだ61歳でした。
芸人界からも多くの悲しみの声が寄せられ、日本は深い悲しみの包まれました。
芸風とは打って変わって、芸人仲間からは「繊細」「芸人としては真面目過ぎる」など、非常に繊細な人柄が覗えますが、師匠である志村さんの死、コロナ渦で思うように仕事ができない、大好きな仲間に会えないなど、様々な不安が重なってしまったのでしょうか。
本当に、惜しい人を亡くしました。上島竜兵さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
スポンサーリンク【ダチョウ倶楽部】の結成は1985年
【ダチョウ倶楽部】のトリオ結成は1985年です。
前述の通りですが、ダチョウ俱楽部は結成当初は肥後さん、寺門さん、上島さんの3人に、初代リーダーの南部虎弾を加えた4人のカルテットでした。
しかし、次第に南部さんの台本に無い奇行などがエスカレートしていき、リーダーがクビになるというまさかの展開になり、結成2年後の1987年からトリオとして活動することになりました。
芸風は主にコントで、「聞いてないよぉ~」、「どうぞどうぞ!」、「ヤァー!!」、「ムッシュムラムラ」など、2024年現在の私達の生活の中にまで染み込んでいるギャグも多数あり、その歴史の長さとお笑い芸人トリオとして如何にダチョウ俱楽部が愛されているかが分かります。
また「熱々おでん」や「熱湯風呂」などのリアクション芸の先駆者でもあり、主に上島さんがその役割でしたが、現在リアクション芸人として第一人者である出川哲朗さんとは兄弟、あるいはコンビのような関係性で、ともに体を張ることに誇りを持っていました。
お2人は喧嘩してから仲直りのキスまでのくだりが有名ですが、上島さんが亡くなってからは出川さんがそのネタを継承し、テレビ出演の際にチャンスがあると共演者に喧嘩をふっかけ、キスまで持ち込むことが度々あります。
上島さん死去後は、肥後さん、寺門さんのコンビ体制となりましたが、やはりトリオ時代に比べテレビ出演などは減っています。
今後もぜひ変わらない笑いを届けてほしいですね。
先日2024年1月20日に亡くなられた南部虎弾さんに、心よりお祈り申し上げます。
スポンサーリンク同期芸人は「出川哲朗」!!!
【ダチョウ倶楽部】の同期芸人は『出川哲朗』『ウッチャンナンチャン』『今田耕司』『130R』がいます。
出川哲朗 | 39年 1985年~ |
ウッチャンナンチャン | 39年 1985年~ |
今田耕司 | 39年 NSC大阪校4期生(1985年入学) |
130R | 39年 NSC大阪校4期生(1985年入学) |
まとめ
【ダチョウ倶楽部】のトリオ名の由来、旧コンビ名や本名・芸名、同期芸人についてご紹介しました。
- 『ダチョウ俱楽部』トリオ名の由来は、頭文字のイニシャルが「T」の芸人が売れる、さらに濁点を付けた方が良いという案から「ダチョウ」。当時流行っていた「おニャン子クラブ」から「俱楽部」を取って『ダチョウ俱楽部』と命名した
- 肥後さんの本名は肥後 克広 (ひご かつひろ)
- 寺門さんの本名は寺門 義人(てらかど よしひと)、『ジモン』の由来は苗字を音読みにしたもの
- 上島さんの本名は上島 龍平(うえしま りゅうへい)。2022年5月11日死去
- ダチョウ俱楽部結成は1985年で、1987年までは『電撃ネットワーク』の南部虎弾さんを入れた4人のカルテットだった
- ダチョウ俱楽部の同期芸人は【ダチョウ倶楽部】の同期芸人は『出川哲朗』『ウッチャンナンチャン』『今田耕司』『リットン調査団』
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
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