※この記事は2024年2月に更新しました。
2024年1月20日、電撃ネットワークのメンバー『南部虎弾』さんが急逝されました。
つい4日前の1月16日に亡くなった、芸人仲間であり親交のあった『エスパー伊東』さんが亡くなり、「ああ、悔しくてしょうがない! エスパー伊東くんが亡くなったそうです!」とコメントを発表したばかりでした。
元気な頃の、エスパー伊東くんと#エスパー伊東 pic.twitter.com/IhXfvDT9jS
— 南部虎弾 (@nanbutorata) March 29, 2020
今回は、偉大な芸人であり世界的パフォーマンス集団である『TOKYO SHOCK BOYS』(※電撃ネットワークの海外用のグループ名)を作り上げ、最後まで第一線で活躍された南部虎弾さんについて、僭越ながらご紹介できればと思います。
今回ご紹介する内容は、南部虎弾さんの芸名の由来、本名など様々な名前について、また南部さんが『電撃ネットワーク』結成前に所属していた『ダチョウ俱楽部』時代についてなどをご紹介していきます。
スポンサーリンク【南部虎弾】芸名の意外すぎる由来!?
【南部虎弾】さんの芸名の由来ですが、名付け親は何と2019年に亡くなった日本を代表する俳優『市原悦子さん』です。南部さんはサラリーマンを経て渡仏し、帰国後に劇団に入団し、その後市原さんと当時の夫である塩見哲さんが設立した「番衆プロ」のオーディションを受けて芸能界入りしました。
その際、南部さん自身が「これでいいですか?」と市原さんに確認し、無事承認を貰ったことで『南部虎弾』が誕生しました。
スポンサーリンク【南部虎弾】の本名と芸歴
芸名 | 南部 虎弾(なんぶ とらた) |
本名 | 佐藤 道彦(さとう みちひこ) |
生年月日 | 1951年7月14日 |
出身 | 山形県鶴岡市 |
事務所 | オフィス電撃ネットワーク |
芸歴 | 44年 1980年~ |
【南部虎弾】さんは本名を佐藤 道彦(さとう みちひこ)さんと言います。芸歴は1980年から。
大学中退後、大手生命保険会社の営業マンを経て22歳で渡仏。少年時代から、誕生日が「パリ祭」の日だったことから、かねての夢は実現しましたが、実現目的もない片道切符でした。
「経由したモスクワでは列車に無賃乗車だったので地下の防空壕を逃げてポーランドに出てパリに着いた。山中の小学校にいたら、ボランティア団体関係者に誘われ参加し、ブドウの収穫のバイトなどもした。永住したくなったけど、職業がないとダメだというので半年後、帰国したんです」と南部さんは語っています。
帰国後、ロシア音楽舞踊団に入ったが、看板女優2人と関係を持ったのがバレてクビになります。黒澤明監督の映画「影武者」(1980年)には、オーディションで「黒澤監督のためなら命もいりません」と宣言したのが気に入られ、出演を果たしました。
その際、市原悦子さんと夫である塩見哲さんが設立した芸能事務所「番衆プロ」に入所。この時『南部虎弾』という芸名になりました。
その後は「コント赤信号」の渡辺正行さんやラサール石井さんが所属する劇団に入団し、上島竜平さん、寺門ジモンさん、肥後克広さんと出会い、渡辺さんから3人をまとめて4人で居っしょにやるよう助言され、カルテットを結成。これが後の『ダチョウ俱楽部』になりますが、結成当時は『キムチ俱楽部』というグループ名でした。
活動を始めたものの、芸風の相違からグループを実質クビとなった南部さんは、体を張った芸にシフトし1990年に『電撃ネットワーク』を結成。当時のメンバー『ダンナ小柳』さんの目から牛乳を飛ばす芸がウケ、その後は危険な芸も含めて全く新しい危険な芸を披露するパフォーマンス集団となっていきます。
その芸風は海外でもウケ、命知らずの芸人集団『TOKYO SHOCK BOYS』という海外用のグループ名にし、海外へ進出。大きな支持を受けます。
しかし、不摂生がたたり、2017年3月糖尿病の悪化により緊急入院。治療過程で急性冠症候群による心不全の状態と診断され、同年5月12日に8時間にわたる心臓バイパス手術をし、無事成功。
ところが2年後の2019年5月、糖尿病を原因とする腎機能低下により人工透析か移植かの選択を迫られ、一時は芸人引退も考えました。人工透析となると海外遠征はふっしつ不可能になるため、なかなか決断できませんでしたが、奥様がドナーとなり移植に成功したことで、その後の芸能活動を継続することができました。
が、2024年1月20日、脳卒中のため死去。まだ72歳でした。
スポンサーリンク元『ダチョウ俱楽部』のリーダー!だった?
南部さんは元ダチョウ俱楽部の創設メンバーであり、初代リーダーでした。
結成当初は『キムチ俱楽部』というグループ名でしたが、のちに改名。南部さんが渡辺正行さんからの助言によって結成されたグループでした。
しかし、活動して行く中で、南部さんは面白いと思って周囲に生意気な口をきいて共演者を起こさせたり、台本を無視してステージ上で急に奇声を発するなど、メンバー間での芸風の違いが露骨に表面化していきました。
そんなある日、南部さんが自宅でテレビを付けたところ、メンバーの3人が自分抜きで出演しており、実質「クビ」という形で南部さんがダチョウ俱楽部を脱退したそうです。
ただし、その後のダチョウ俱楽部の3人との関係性は良好だったようで、2022年5月、上島竜兵さんが死去された際には「やっぱり自分で死を選ぶってのは間違ってますよ。私は2年前に腎臓移植やって、どうやって生きようかと。周りの人も自分の命をどうやって守っていこうかって…。自分で命を捨ててしまうってのはね、やっぱり竜兵くん、間違ってるよ!間違ってるよと言っても、もう帰ってこれないんだから」と、声を震わせながらコメントを寄せました。
スポンサーリンク8月6日放送
— 南部虎弾 (@nanbutorata) July 31, 2019
日本テレビ 『世界仰天ニュース』
大変だった模様が描かれています。
何年かぶりにダチョウ倶楽部の肥後くん上島くん、とスタジオで一緒でした。
その模様も是非、楽しみにしてください!
我ながら感動いたしました。#世界仰天ニュース#ダチョウ倶楽部https://t.co/VNKpFGFzND pic.twitter.com/aKTI5oecn8
同期芸人は「青野敏行」!!!
【南部虎弾】さんの同期芸人は『青野敏行』さん、『宮川大助・花子』、『村上ショージ』さん、『中村 ゆうじ』さんがいます。
青野敏行 | 44年 1980年~ |
宮川大助・花子 | 45年 1979年~ |
村上ショージ | 45年 1979年~ |
中村 ゆうじ | 43年 1981年~ |
南部さんの芸歴は長く、まだ大手の吉本興業がNSCを設立する前から芸歴をスタート。現在吉本の芸人さんは芸歴をNSC入学からカウントしているため、少々誤差はあるものの、記載したような方々ば南部さんと近しい芸人としての芸歴の方々です。
特に吉本新喜劇で有名な『青野敏行』さんは、南部さんと全く同じ1980年からのキャリアスタート。
その2年後には、NSC大阪校が開校し、『ダウンタウン』『ハイヒール』など現在の大御所コンビが名を連ねます。
まとめ
【南部虎弾】さんの芸名の由来、旧コンビ名や本名、ダチョウ倶楽部時代についてご紹介しました。
- 『南部虎弾』さん芸名の由来は、俳優の市原悦子さんが名付け親だった
- 南部虎弾の本名は佐藤 道彦(さとう みちひこ)さんで、芸歴は1980年から
- 南部さんは元『ダチョウ俱楽部』のリーダーで、実質クビになり脱退していた
- 【南部虎弾】さんの同期芸人は『青野敏行』さん、『宮川大助・花子』、『村上ショージ』さん、『中村 ゆうじ』さん
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
そして、『南部虎弾』さんこと佐藤 道彦(さとう みちひこ)さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
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